それは、小一の知能テストの結果から始まった。 どうも、結果が悪かったようである。知能テストが終わって、しばらくして帰宅すると、母が仁王立ちして、玄関で待っていた。こっちに来いと言わんばかりに、居間に連れ込まれると、何故か知能テストの問題集があった。もう一度、解きなおせと母は、言う。


 しかし、分からないものは、分からない。鉛筆を握り締め、問題を前に固まっていると、母は、

「何で、こんなことも出来んとね!?」

 と、私の髪を引っ張ったり、ほおをつねったりする。泣くしかなかった。


 そして、中学生になる頃には、

「近くの商業高校に行かんね」

 と、何度となく言われたが、結局、デザイン科のある高校へと進学した。うちが、母子家庭で、母が会社で働き、家に帰ると会社の仕事を持ち込んでまでして、妹ともども高校へと進学させようとしているのに、また離婚した父からは一切養育費をもらえない、貧しい家庭環境だと知った上で。


 そして、時は過ぎて、24歳の時、ランジェリーパブで働くことになった。すごくおいしい仕事で、月収50万にもなった。上はすけすけで、下はTバックのランジェリーを身にまとい、水割りを作り、へらへらしているだけでいい仕事だったからである。普通の昼の仕事は、しょっちゅう休みがちだったが、この仕事だけは皆勤賞だった。


 私は、あまり指名されることはなかった。あったとしても、好みのタイプのひとは一人もいなかった。口下手なので、話もはずまない。それだけが、きつかった。


 そんな私を時々来店しては、必ず指名してくれるひとがいた。彼は、後に私にとある貴金属製作所の

仕事をあっせんしてくれ(従業員の口利きがないと入社できない会社だった)果てには恋人の関係になろうとは、思ってもいないことであったが。


 職人さんたちの世界は独特のものがあった。特に、工場長はひどかった。新人には、当然のごとく厳しかったし、仕事が出来るひとでも、気が弱いひとには、辛くあたり、お気に入りには、下手に出ると言う感じ。私は、新人の上に要領も悪かったため、人間性までをも否定されるようなしかり方をされていた。


 朝が日に日に憂鬱になっていった。会社の近くの公園でコーヒーを飲みつつ、一服してから、やっと会社に向かう。すると、昼食後もそうだったが、必ず大を催し、数ヶ月で体重が6キロ減り、仕事もだんだん休みがちになった。でも。母の「手に職をつけないと、あんたは生きていけんよ」という教えに逆らうことがなかなか出来ずにいた。


 仕事が辛い分、彼とのセックスは至上の喜びであった。しかし、彼には、既に彼女がいて、その彼女の家は家計が苦しかったのか、どうも援助してもいるらしく、邪険に払うこともできないけど、私とは結婚したいなどと、矛盾したことを言うのに、腹が立ち、三行半を下し、以来、縁が切れきった。仕事も同時に辞めた。


でも。あまりにも、憂鬱な日々が続くので、妹に相談すると、ある精神病院を紹介された。


 が、先生は一通りの話を訊いて、

「本当に病気のひとは、自覚がないから、自ら病院にくることはないんだよ」

 と、けんもほろろ。じゃあ、何でこんなに辛いんですか?と、訊けなかった。デパスを処方されただけ。2回通院して、行かなくなった。


その後、コンピュータ関係の仕事に就くためにバイトをしながら、学校へと通ったりした。


 しかし、ある会社に面接を希望してますと電話すると、

「ええ~?28才ですかぁ?若いひとの方が、覚えるのが早いから、その年だと無理ですね」

 と、言われ、結局、それだけで意気がそがれてしまい、バイトの生活が数年続いた。


 そして、この仕事だけはやるまいと思っていた、営業の仕事に就いたら、貴金属製作所より憂鬱な気分が重かったので、とある心療内科に通院し始めた。 


 前述した心療内科には、もう通院していない。多分、10箇所くらい、病院を変えて、今のところ、やっと一つの心療内科に辿りついた。もう、よほどのことがない限り、他の心療内科に変える気はない。